プレ・スワンソング

 

 

   一

「私たちは闘ってるのよ?」
 あるとき、私は妹の体をタオルで拭きながら、そう尋ねてみた。
「わたしたちはたたかってるのよ」
 妹はそっぽを向いたまま、振り返りもせず私の言葉を反復する。話を訊いていないのだ。予想通りの反応とは言え、ため息が出てしまう。
 彼女の視線は私の肩越しに背後にすり抜け、その先にはテレビがある。その画面には、丁度お気に入りのコマーシャルが流れていた。妹はそのコマーシャルソングを口ずさみながら、私の手を離れ、脱衣所を抜けて、テレビの方へ歩き出す。
「こら、服を着なさい」
「こらふくをきなさい」
 妹は振り返りもしない。体から落ちた水滴で畳が濡れる。歩きながら子供っぽい無造作な動作で乳房を掻く彼女の、体の曲線はすでに女性のものだ。心の成長を待たずに大人になってしまうことに、不安な感じを覚える。身長はもう姉の私と変わらない。
 私の妹は人と少し違う。
 人と同じようにふるまうことが出来ない。人と同じように考えることが出来ない。人と同じように感じることが出来ない。そしておそらく、自分が人と違うことにも、気が付いていない。
 たとえば、
「あろえ」
 私は妹の名前を呼ぶ。おそらく妹はテレビ画面を眺めたまま返事をしないだろう。上半身をふわふわと前後に揺らしながら、ブラウン管を凝視しているに違いない。
「あろえ」
 声を少し大きくして、もう一度繰り返す。妹はそれでもテレビから視線をそらさない。画面には、栄養ドリンクのCMが映し出されている。もしかしたらそのとき妹は、タフビーム、タフビーム、と抑揚のない声で商品名混じりのキャッチフレーズを連呼しているかもしれない。
 商品や映像の内容に興味を持っているのではない。めまぐるしく変わる画面、軽快なコマーシャルソングの与える刺激のとりこになっているのだ。妹は小さいときから、点滅する光や繰り返される音へのこだわりが強く、光ったり音の出るものを与えると、いつまでも飽くことなく戯れていた。規則的に繰り返す刺激が好きらしい。
 日に何度も同じ内容が流されるテレビコマーシャルは、そんな妹にとってうってつけの娯楽で、テレビ番組そのものよりもずっとお気に入りだ。目を見開き、口を薄く開け、食い入るように画面を見つめている。
「あろえ」
 三度呼んで、なお妹は振り向かない。耳には聞こえてはいるはずだ。好きな音、あるいは嫌いな音が、たとえ傍にいる私が気が付かないような小さな音で鳴ったとしても、妹は即座に反応する。耳は悪くないんだ。きっとこの呼びかけだって聞こえてはいるけれど、言い方が悪くて伝わらないんだろう。だから、
「あろえ、こっちを向いて」
 と具体的に指示をすれば、妹は振り返ってくれる。と思うけれど、もしかしたらそれでも駄目かもしれない。彼女に意思を伝達させるのは難しい。妹にはコミュニケーションのための能力がほんの僅かしかない。
 人は普通、こんなふうにただ名前を呼ばれただけでも、その声の抑揚、言われたときの場面から、そのとき自分が望まれていることをなんとなく想像出来る。もっと小さな子供だって、いたずらをしているときに強い口調でその名前を呼べば、それだけで自分が咎められていることを理解するだろう。だけれど、妹にはそれがない。反応をしないからといって、逆らおうという意図があるわけでもない。本当に、ただわからないだけなのだ。
 そして、私の方からしても、妹の気持ちを察することは難しい。目を離すと部屋のなかをぐちゃぐちゃにしてしまったり、意味の通らない言葉を繰り返していたりする。彼女には彼女なりの理屈があるのだろうけれど、私にはその心の論理が理解出来ない。体系が違うのだ。まるで宇宙人の子供みたいだ、と誰かが漏らしていた。
 これが妹が人と生きていく上での大きな困難になっている。医者では自閉症と診断されている。この障碍は今のところ本当の意味で完治する方法は見つかっていないのだそうだ。
「それは足を失ってしまった人に、二度と自分の足が生えることがないのと似ています」
 診療室で医者は言った。根本的に困難自体をなくすことは出来ないが、車椅子や義足、そして本人や周囲の努力が彼らの生活を改善してゆくように、自閉性障碍者の困難もそのための技術や知識で解決できるものがある。
 ただ、障碍は目に見えないものだから、どこまで出来るのか、どうすればいいのか、努力と勉強を積み重ねて手探りで戦ってゆくしかない。
 あろえ本人も、それを理解してくれればいいのだけれど。

 

   二

 街を囲む山々のてっぺんは雪化粧ですっかり白くなっている。師走も半ばを過ぎ、世間では年末にむけて慌ただしさを増していたが、私の勤める会社のは例年になく穏やかなもので、みなのんびりと業務をこなし、そこには一年が終わりに近づくしんみりとした空気と、その前に控えたクリスマスに対する浮かれた空気が混在している。
 その日も、五時を回るころには私の業務はあらかた終わってしまい、六時の終業までの時間を自分の席でもてあましていた。することがなくなるなんて、普段なら考えもよらない。たとえ休日を家で過ごすとしたってなんだかんだで忙しい。いつだって体や頭を動かしているのが当たり前で、不意に何もしていない時間が訪れると、なんだか悪いことをしているような後ろめたい気持ちを感じてしまうのだ。
 何かすることはないかな、と思い、作成した書類やファイルをもう一度点検したけれど、仕事は出てこない。
「八坂さん」
 居心地悪く椅子の上に佇んでいると、同期の、そして高校時代からの知り合いでもある月島君が話しかけてきた。
「コーヒーでもどう?」
 彼が差し出してくれたコーヒーを受け取る。
「年末なのに暇だね。この会社潰れるのかな」
 そう言って、彼は笑った。特別整った顔立ちというわけではないけれど、逞しい体と、爽やかで人の良さそうな笑顔は、会社の女の子に好感を持たれている。高校時代は野球部のキャプテンで、当時もそれなりに人気があった。
「そのかわり、年明けからは大変そうだけれどね」
 そう答えてから、私はコーヒーを口に含みかけ、普段とは違う香りに気が付いた。
「ちょっと、これ、課長の私物の、あの高いコーヒーじゃない?」
「あ、間違っちゃったかな」
 月島君はおどけてみせたが、ボタンを押すだけで出てくるコーヒーメーカーのコーヒーと、間違えようがない。
「ま、課長もたまにはこれくらい部下たちにサービスしてもいいと思うよ」
 彼は微笑しながらそう言った。
「たち?」
 辺りを見回すと、課長は丁度席を外していて、シマのみんなは一様に淹れたてのコーヒーを啜っている。部屋にはいつのまにか、コーヒーの良い香りがたちこめている。
「知らないわよ」
「大丈夫だよ。課長は通ぶってるけど、違いなんかわかりゃしないんだ。こないだ、コーヒー頼まれてインスタント持って行ったけど気が付かなかったし。ちゃんと確認済み」
「用意周到なのね」
 私は遂に苦笑してしまった。
「お、いいね」
「え?」
「いま笑った。やっぱり笑うとかわいいな」
「気持ち悪いこと言わないでよ。びっくりするわ」
「気持ち悪いっていうなよ。最近全然笑わないから、心配してたんだ」
 言葉通り、微笑を消して私をのぞき込むような目で彼は言う。
「そうなの?」
「そうさ。いつも根を詰めがちだし、ため息ばっかりついてるし。疲れてるな」
「うーん……」
「まあ、俺は笑わなくてもかわいいとは思うけど」
「もう、だからそういうのやめてって」
「なに、ただ同僚として思ったことを指摘してるだけさ」
 月島君は笑う。私は困って黙り込んでしまう。
「月島さーん、仕事中に八坂さんを口説かないでください」
 向かいの席の山下さんが言うと、月島君は照れくさそうに頭をかいて、自分の席に戻って行った。
 椅子の上で、いつのまにか強ばっていた背中をほぐした。私的な会話を持ちかけられると、なんだか変に緊張してしまう。
 一人になってから課長秘蔵のブルーマウンテンを飲むと、柔らかで苦みのない味わいがコーヒーを特別好きではない私にも美味しくて、ほっとため息が出た。

 仕事が終わり、買い物を済ませると、私は学校にあろえを迎えにゆく。あろえと私は二人で暮らしている。何をしでかすかわからないこの妹を一人にさせるわけにもいかないから、学校が終わって、私が迎えに行くまでの時間はボランティアの学生が面倒を見てくれている。
 いつも通りの時間に学校に行けば、大抵あろえはすでに帰る準備をしていて、私が来るのを待っている。彼女は時間にうるさくて、早すぎても遅すぎても不機嫌になる。かといって、定刻に迎えに行っても特別嬉しそうな顔をしてくれるわけでもなく、無表情に近寄って来てそっと私の手を握るだけだ。
 その日も、いつも面倒を見て貰っているその学生さんから簡単にその日の彼女についての報告を受ける。普段どおりの問題はあったけれど、特別な出来事はなかったそうだ。それからいまの彼女の学習状況。彼女が主に取り組んでいるのは、会話の訓練だった。
「このところ、すごい成長ですよ」
 と、その深沢という名の学生は嬉しそうに言った。
「前は、何かして欲しいものとか場所に連れて行って、触らせたりしながら単語を連呼するしかなかったんですが、最近ではまず言葉だけで伝えようと試していますね。もともと彼女の中には、話したいっていう欲求自体はあるんですよ。だけれど、うまく話せないのがストレスになってたんだ。普段のパニックも減ってきたんじゃないかな。なんだか全体的に大人しくなったような気がしませんか?」
 彼は去年からボランティアをしていて、私たちとの付き合いももう一年半になる。
 確かにあろえはこのところ成長していると思う。その功績の大部分は彼によるところだと、私も先生も認めざるをえない。彼はいろいろと勉強してくれているようで、新しいアイデアをたくさん出してくれる。失敗することも多いが、それ以上の成果は上げている。
 会話の進歩があまり芳しくなかったあろえに、コミュニケーションブックを導入しようと提案したのも彼だった。当初は色々と不安もあったけれど、結果としては大正解だったと思う。
「ただわからないのは、言葉自体は、結構複雑なものでも理解出来ているようなんですが、簡単なことが出来なかったりします。自分の名前に反応しなかったり。いや、自分をさしてるとはわかるらしいんですが、あなた、とか、お前、みたいな言葉と同じものだと思ってるみたいで、自分から人に呼びかけるときにもたまに使ってしまいます。何度教えても直らないんですよ。間違って覚えてるのかな。気をつけて呼びかければ反応してもらえるから、今のままでも実生活で特別な不便はないとは思うんですけれど」
「ああ、それは……」
 気づいたのか、と思いながら、私は言葉を続けた。
「むかし、家でアロエを栽培していて、母がよく話しかけていたから、それと自分の名前の区別がつかないんじゃないのかしら」
「うーん、そう言うのって、あるのかな。」
「ほら、犬なんかも、そうやって名前の覚え違いするじゃないですか」
「そうですねえ……」
「でも、思い付きですから、全然違う理由かもしれないですが」
 彼が考え込んでしまったので、私はそう誤魔化した。
「とにかく、調べておきます。自分の名前をはっきりそうと知らないなんて寂しいですからね」

「すごいぜたふびーむ、つよいぜたふびーむ、じゅうまんばりきだたふびーむ」
 歩きながら、あろえはテレビコマーシャルの歌を口ずさむ。鼻歌が出るのは機嫌が良い証拠で、私も安心する。
 とても歌には聞こえないその歌に、行き交う人は露骨な視線を向けてくる。私も、すっかりこんなかたちで人に注目されることに慣れてしまった。それが良いことなのか、悪いことなのか知らないけれど。
 彼女と手をつなぎながら、家までの道を歩いている。あろえの足取りは、バレリーナのような独特の歩き癖が出てしまっている。つま先立ちで、ひょこひょこと頼りない。ちょっと目立ってしまうけど、別に実害はないし、私の目からするとコミカルで可愛いく見える。
 歩きながら私は、深沢君に指摘されたことについて考えていた。
 あろえが自分の名前を覚えていないのには、深沢君に誤魔化したのとは別の理由があると思う。
 二年前まで一緒に住んでいた母はあろえを嫌っていて、医者に自閉症と診断されても何一つ学ぼうともせず、適切な教育を受けさせようともしなかった。おかしな薬を吐くほど大量に飲ませたり、狐のせいだと祈祷に連れていって棒で叩かせて、活発なあろえが二、三日大人しくなったと喜んでいたが、それはただ動けないほど弱っていただけだった。当時はそんなものかと思っていたけれど、今思うと恐ろしさにぞっとする。足を捻挫しても平気に笑っているほど痛みに鈍感なあろえが動けなくなるなんて、どれだけ殴ったのだろう。
 もちろんそれでもあろえの状況は変わらず、変わるはずもなく、すると母は絶望してしまった。自分はとんでもない不幸を背負い込んでしまったと、周囲に愚痴をこぼし自分の悲劇を理解させることばかりに懸命になった。
 そして暇さえあれば本人に面と向かって罵っていた。周りが咎めても、どうせ本人は馬鹿で言葉なんかわかりはしないのだから、何を言ったってかまわないんだ、自分はそれくらいつらい目にあわされている、と権利を主張していた。
 そして実際、当時の彼女は今よりもずっと言葉を理解していないようで、何も言ってもまるで聞こえていないように見えた。それが、母の苛立ちをいや増ししていたらしい。私が高校に通っていたころ、学校から帰ってくると、母がこんなふうに語りかけているのを聞いてしまった。
「まったく、あろえって本当に迷惑な子供ね。どうしてこんな出来損ないに生まれたのかしら。お母さんは本当に、あろえのおかげでいつも恥ずかしい思いばかりするわ」
 母がにこやかな表情で口にしたその言葉の意味を、あろえが理解しているようには見えなかった。彼女は普段どおりの茫漠とした顔つきで、言葉を聞き流し、母がくすぐると、嬉しそうに笑い声をたてる。「ほんとに頭が悪いのね」と母を苦笑させていた。
 父親が滅多に帰らない家で、昼のほとんどをあろえと二人っきりで過ごしていた母は、こんな言葉をどれだけ語りかけたのか。とにかく、この悪意に満ちた悪戯のなか「あろえ」と言う言葉はそこにいない誰かみたいに使われて、あろえは名前を自分と結びつけることが出来ないまま成長してしまったんだと思う。
 もし、その記憶がまだあろえの頭に残っているのなら、自分の名前など、この先ずっと知らないでいた方が良い。調べてくれると言っていた深沢君には気の毒だし、知ったところであろえが傷つくことはないだろうけれど。

「おかえりなさい」
「ただいまでしょ」
「はい」
 あろえは返事をしながら自分の靴をいつもの決まった場所に慎重に置いた。それから私の脱いだブーツの場所も気に入らなかったのか、2センチほど位置を整える。

 今日の晩ご飯は和食。きんぴらごぼうがポイントだ。あろえは歯ごたえのある食べ物が好きではない。これをどうやって食べさせるか、が私の挑戦である。
 テーブルに向かい合って、自分も食事をしながら、彼女の食べるのを観察している。きんぴらごぼうはあろえのお気に入りのカラフルなガラスの小鉢にいれてある。あろえは二度、三度、視線を投げかけるが、手にしたフォークはなかなか小鉢に伸びない。
 私は彼女の小鉢からゴボウをつまみ上げ、自分で食べてみせる。自分の領域を侵されたあろえは、じっと私を見る。
「ゴボウが美味しいよ」
 私が笑うと、あろえは小鉢に視線を落とす。
「食べてみてください」
「だめです」
「あ」
 彼女はいま、ブックを開かずに自分の言葉で返事が出来た。簡単な言葉だけれど、私は、嬉しくなってしまって、
「よく言えました」
 思わず褒めかけて、思いとどまった。返事自体はきんぴらごぼうを食べたくないというわがままな内容だったじゃない。ここで褒めてはいけない。私はしばしばあろえを甘やかしすぎると指摘されていたのを思い出した。気を引き締めて問い返す。
「なんで駄目ですか?」
「なんでだめですか」
「きんぴらごぼう嫌いですか?」
「ごぼうきらいですか」
 褒めた傍から、反響言語が出てきてしまう。しかも、どうあってもきんぴらごぼうなど食べたくないらしい。私はがっかりして、ため息をつく。
 結局、私の試行錯誤は虚しくにんじんを半分かじっただけで彼女はきんぴらには手を付けずに食事を終えてしまった。

 食後には、空になった食器を私のも含めて流しに持ってゆくのがあろえの役割だ。家のことを毎日素直に手伝うのは、同じくらいの普通の子と比べても良くできた習慣だ。難点を言えば、ときに私がまだ食べ終わって無くとも持って行ってしまうくらいだろうか。
 テーブルの上に食器がなくなると、あろえは椅子に座ってテーブルに両手の平を貼り付ける。私が食後のコーヒーを出すのを待っているのだ。どうしてだか知らないけれど、この子はお菓子やジュースよりも、コーヒーをブラックで飲むのが好きなのだ。
 私がマグカップを並べるのが遅いと、眉間にしわをよせてブックから言葉を拾い出し、コーヒーが出てくるまでその言葉を繰り返す。
「コーヒーください」
「コーヒーください」
 与えると、二杯目がないことはわかっているから、時間をかけて一杯を飲み干す。
「コーヒー好きなのに、ニキビとか全然出来ないね」
 あろえのなめらかな肌を見ながら言ってみたが、当然のごとく反応はない。マグカップを両手で包み込むようにして、まるで試験会場の受験生のような真剣な表情でコーヒーを飲んでいる。
 寝付きが悪くなることもあるし、出来れば夜にコーヒーを与えるのは避けたいのだけれど、彼女の集中した様子を見ると、生活にそれくらいの喜びがあってもいいのかなと思ってしまう。
 こうして黙って大人しくしていると、あろえは、うらやましくなるくらい整った顔つきをしていることに気が付く。そして実際、人にもよくうらやましがられる。ただ保護者の立場としては、この子にとってそれは余計な危険をまねく大きな要素になってしまっているから、手放しでは喜べない。
 これでもし健常だったら、さぞモテたろう。普通学級に通って、同級生の男の子と付き合ったり別れたりしていたのかしら。そしたら私たちはどんな姉妹になれただろうか。一緒にデパートに行って流行の服をああでもないこうでもないと話しながら選んでいたかもしれない。悩み事を相談しあったり出来たかもしれない。
 他人より少し風通しの悪い世界のなかで、この子は何を考えているのだろう。いくらか話すようになったとはいえ、その内容は何が欲しいとか何がイヤだとか、そういったシンプルで具体的な事柄に限られていて、心の立ち入った部分について語られたことはない。何を考えているとか、抽象的な事柄は一度も言葉にしたことがない。誰も彼女の本当の気持ちはわからないし、彼女の方からわからせようともしてくれない。あろえは孤独を感じないのだろうか。
 食事が終わると、入浴。あろえが湯気のたつ体をパジャマに包むのを見届けたら、次は私の番だ。お湯に肩までつかり、入浴剤の爽やかな香りを鼻腔の奥まで含み、それをため息と共にはき出すと、あろえの声が聞こえる。また、歌っているらしい。きっとテレビを見ているのだろう。
 お風呂に入っている時間が、一番癒される。この町には温泉があるのだけれど、他人が入る外風呂より、一人でリラックス出来る家のお風呂のほうが安心する。私は風邪をひきそうなくらいぬるくうめるので、外のお風呂では熱いのに我慢しなければならないのだ。
 体温に近いお湯のなかを体の力を抜いてたゆたっていると、皮膚から溶けてゆきそうだ。本当に溶けてしまったらどれだけ気持ちよいものだろうかと想像する。私であり続けることには、めんどくささが多すぎる。
 会社で、笑顔がないと言われてしまったのは少なからずショックだった。外に出ているときはそれなりに愛想良くしているつもりだったけれど、私はそんなあからさまに余裕をなくしていたのか。
 もしそうだとしたら、きっとそれは先日の母からの電話が原因だと思う。
「まだ、お前はあろえの面倒を見ているの?」
 母と会話になればいつもなされる質問だ。
 父と離婚したあと、この家にはもう住みたくないと母は隣町にある実家に帰ってしまった。そして、あろえをもう育てたくないと、家を売ってそのお金でどこか施設に預けようとさえしていた。そこで、丁度大学を出て仕事をはじめていた私がここに残って引き受けることで納得させたのだ。
「当たり前じゃない。お母さんとは違うわ」
 私の返事は、つい、喧嘩を売るような口調になってしまう。
「あの子は病気なのよ。あんな獣じみた子が、人間と一緒に暮らせるわけないわ」
 母は私の敵意を無視して殊更に心配の感情を込めて言葉を続ける。その親らしく装った態度が一層私を苛立たせる。
「病気じゃないわ、障碍よ。それに、もう暴れて血が出るほど噛みついたりすることはなくなったのよ。お母さんがいたころより、随分と良くなったんだから」
「じゃあ、治るの?」
「だから、あろえのは、治らないとか、るとかいうものじゃないんだって……」
「やっぱり一生治らないんでしょう? お医者さんも言ってたものね。頑張るだけ無駄よ」
 そんなことない、と思うが、咄嗟に断言できないのが忌々しい。私が黙ってしまうと、母は我が意を得たりと喋り出した。
「お前は充分やったわよ。もう自分のことをやりなさい。お前はまだ若いのよ? このまま回復の目処がたたないあろえの世話をしながら、お婆ちゃんになっちゃってもいいの? 良くないでしょう? あんなのに関わって、人生を台無しにすることないわよ。お前もまだ一人前になりきってないのに、良くやったわ。恥ずかしがることなんかないわよ。悪いのは私だから、あなたが責任を感じなくてもいいのよ。あの子はお前に感謝なんかしない。お前が死んでも泣いてはくれない。どうせ何もわからないのよ」
「そんなのは、関係ない」
 私の声から張りが落ちてしまっているのが、忌々しい。 「ねえ、お母さんが悪かったわ。それはわかってるの。だから、お願いだから、お前は自分の人生を……」
 母が言いかけた途中で、私は電話を切った。黙り込んだ携帯電話を見ていたら、不意に涙がこぼれて、喉からは嗚咽がもれて、止まらなかった。泣きながら、自分は何で泣いてるのだろうと思った。衝動的で自分本位な母を私は嫌いだ。その言葉に泣かされるなんて、あっていいことじゃない。
 私には、どこにも行き場なんかないし、行ってはならない。ここが私の場所なのだ。そして、それは自分で選んだことなのだ。同じ環境に生まれたのに、妹より恵まれて育ってしまった私には、妹の出来ないことをかわりにしてあげる義務がある。彼女のために私の何か割いて与えるは当たり前なんだ。そうに決まっている。私のしていることはきっと間違っていない。間違っていないはずなのに。
 自分に言い聞かせていると、くらくらと目眩がしたので、バスルームを出た。体を拭き、服を身につけ、それでもまだ不安が心を支配していて、なんだか心細く、怖い。
「あろえ」
 テレビを見つめるあろえの横顔に、呼びかけた。聞こえているはずなのに、反応を見せてくれない。
「あろえ」
 二度、三度、感情を込めて呼びかけても、やはり彼女は振り返らない。
「あろえ、こっちを向いて」
 私の妹は振り返らず、上半身をゆるやかに揺らしている。
 泣きそうになった。

 

   三

「クリスマスどうするの?」
 退社間際、月島君が私を呼び止めた。彼は右手で車のキーホルダーを振り回し、ちゃりちゃりと鎖を鳴らしている。
「もう来週末だよ。何か予定ある?」
「家で妹と過ごすわ」
「去年もそう言ってたじゃない」
「そうだっけ。良く覚えてるわね」
「去年も誘って断られてたからなあ」
 街灯の青白い光の下、彼は苦笑した。歯がやけに白い。
「どうしても妹さんと一緒に過ごさなきゃだめなの?」
「そうね」
「もし、予定が空いたら教えてね」

「悪いけど、空かないと思う」
「いずれにせよ、こっちの予定は空けとくから。それと、今日って金曜じゃない。今からちょっとだけ、どうかな?」 「ごめん、それもむり。いつもゴメン」
「わかってたよ。訊いてみただけ。週末も出来るだけ空けとくから」
「そんなことしてくれなくたっていいよ」
 彼は私の返事を意に介さず、手を振ると、駐車場の方向に向かって歩き始めた。彼の背中は広い。私なんかに構ってないで、別の人を相手にすればいいのにと、思った。普通の若者らしいことを話せば話すほど、私には彼が、遠い別の世界の人間のように感じられてしまう。

 クリスマス、と言われてみれば確かに街にはイルミネーションや飾り付けがなされ、スーパーマーケットではジングルベルが流れている。
 イブの日は、例年通りなら学校の父兄たちが開催するクリスマスパーティにあろえと共に出席するのだろう。去年はうちを会場にして、随分前からみなで準備をしていたものだ。今年はそういえば、準備の手伝いに呼ばれていなかった。パーティには出席する予定でいるのだけれど。
「ああ、みなさん気を遣ってるんですよ」
 あろえを引き取りながら深沢君にそれとなく尋ねると、彼はそう言った。
「えっ、気を遣うって、どういうことですか?」
「だって、八坂さんは働いてるでしょう? 他の方は大体専業主婦ですからね。準備はいいから、当日だけ来てください」
「でも、申し訳ないような。かえってパーティに行きづらくなりますよ」
「気にしなくてもいいと思いますけれど。あと、そうだ、伝言があったんです」
「伝言ですか?」
「もし何か個人的な用事があったら、あろえちゃんを一日預かっても良いって言ってましたよ」
 今年の主催の奥さんが、気を利かしてくれたのだそうだ。私も年頃なのだから、イベントの日には何かとすることもあるだろう、と。
「パーティの後は、僕が面倒見ますよ」
 そんなこと言われても困るな、と答えかけて、ふと、さきほど月島君に誘われていたことを思い出した。もしあの言葉に甘える事が出来るのなら、私にも用事がないこともない。それならば、行ったらどうだろうか?
 そこまで考えてから、月島君の誘いを案外まんざらでもなく思っていた自分に気が付き、恥ずかしかった。私は、そうだったのだろうか。
「何か、あるんですか?」
「いや、今のところ、何もないですけど……」
「大丈夫ですよ。今年は僕も出席するし、ちゃんと人手は足りてると思います」
「でも……」
「あ、どうしたんですか、顔が赤いですよ?」
「え……」
 私は顔を抑えた。
「あどうしたんですかかおがあかいですよ」
 窓の外を眺めていたはずのあろえが、いつのまにかすぐ傍に居て、唐突に言った。
 そして、私の手を握ってくる。私はそれをきっかけに、深沢君に挨拶をして、慌ててその場を辞去した。
「困ったな」
「こまったな」
「クリスマスねえ」
「くりすますねえ」
「こんなことで迷うことなんか慣れてないからどうしたらいいかわからないよ」
「したらいいかわからないよ」
 学校からの帰り道。私は立ち止まり、あろえを振り向かせてから尋ねた。
「あろえはクリスマスは一人でも大丈夫?」
「はい」
 彼女がこんな風に即座に「はい」と答えるとき、話の内容を理解していたためしがない。
「あなたは寂しがったりしないのは知ってるけれどね」
 私は構わずに、独り言のつもりで呟く。
「すごいぜたふびーむ、つよいぜたふびーむ……」
 私の視線から解放されたあろえは、前を向くと歌い始める。
「結局は、私自身の問題なのよね。自分のこと決めるのって大変だわ」
「じゅうまんばりきだたふびーむ」
 お互いに独り言を呟きながら歩いている姉妹をみて、通りすがる人はどう思っただろう。

 

   四

 日曜日の昼下がり。外は冷たい風が吹いているけれど、部屋の中は暖房を強く効かせているのでまるで春のようだ。Tシャツにホットパンツ。だらけた格好のまま休日を過ごす私は、クッションを胸に抱き込むように腹這いに寝転がって、あろえのコミュニケーションブックを調整していた。
 コミュニケーションブックには、イラストに言葉を添えたカードがたくさんファイルされている。自閉症は言語能力に障碍があるかわりに、視覚から認知する能力は強い。口で言って解らないことでも、絵や文字にして目から読み取れるようにすれば比較的容易に伝えることが出来る。だから、こうして言葉を視覚化したものをファイルにして携帯し、いつでも参照出来るようにすることで、日常の言語能力を支援しようというのがこのコミュニケーションブックのねらいなのだ。
 まだ慣れない頃は、他人に開いたページを見せながらカードを指さして意図を伝えていたけれど、いま彼女はカードを自分で見て言葉を組み立てて話せるようになっている。
 使っているうちに、どうしても足りない言葉や、あっても使わない言葉というのが出来てくる。それを見つけるたびに、学校の先生や、深沢君がメモにして教えてくれる。私はその意見を参考に、あろえがよりストレスなく会話が出来るようにブックの中身を構成する。それは、彼女自身はもちろん、私も含め周囲の人間のためでもある。
 ガラス越しに差し込む太陽の光が素肌に当たって温かい。あろえは、大好きなキラキラのついた、金や銀の色紙で輪飾りを作っている。部屋にクリスマスの飾り付けをするのに使うのだ。
 静かで平穏な昼下がり、私はカードを握りながら、気が付けば傍らの携帯電話を見つめてしまっている。クリスマスイブの予定が空いたのなら、早めに月島君に連絡したほうがいい。こんな山奥の田舎町とはいえ、いや田舎町だからかもしれないが、人の集まるところはすぐに予約で一杯になってしまう。早く決めなくちゃ。第一それが礼儀というものだ。変にもったいぶるのは失礼に当たる。
 いや、まて、いつのまに私は一緒に出かけるのを決めてしまってるんだ。大体、一緒に出かけていったとして、何をするというのだろう?
 色々余計なことを考えてしまって、どうも、顔が熱くなってしまう。いやだなあと、思う。
 私はカードを握ったまま、あろえに目を向けた。
「ねえ、あろえさん、ちょっといいですか?」
「はい」
 あろえは即座に返事をする。私は構わず続ける。
「私は困ってしまいました」
「はい」
「私はクリスマス出かけるかもしれないんですよ」
「はい」
「あなたは一人でも大丈夫ですか?」
「はい」
「相手は昔からの知り合いなんだけれど、二人で出かけるなんてはじめてなんです」
「はい」
「私の話なんか聞いていませんよね」
「はい」
「えっと、コーヒーでも飲みますか?」
「コーヒーのみます」
 言うなり、あろえはそれまで熱中していた色紙とでんぷんのりを放り出して、すっくり立ち上がった。あんまり現金な態度に、私はあきれるのを通り越して失笑してしまう。
 あろえにコーヒーを、自分にはジュースを、そして向かい合って食卓に座っている。彼女は皿にあけたクッキーには目もくれないで、カップに集中している。このところあろえは一時期よりはずっと穏やかになってるし、クリスマス当日はいつも面倒を見てくれている深沢君もいる。きっと私がいなくても大丈夫だろう。となれば、結局、私が行きたいかどうか、が問題なんだな。
 本当にどうすればいいんだろう。いや、答えはわかっているのだけれど、それでも迷っていた。
 行こう、と決めたのは結局翌日の月曜日になってからだった。会社の帰りに月島君を追いかけて告げると、彼は驚いてから嬉しそうに微笑んでくれた。私が店の予約を気にすると、心配しないで当日を楽しみにしてくれればいいと言った。
 その日私は新しいコートとブーツを買った。

 

   五

 十二月二十四日。昼頃からちらほらと雪が舞いはじめ、夕方深沢君があろえを引き取りに家に訪れるころには本格的な雪模様となっていた。
 彼は恋人を連れていた。私やあろえも何度か会ったことがある元気のいい女の子で、あろえを見ると、かわいい、かわいい、と喜び、あろえはすかさず同じ言葉を返す。
 まだパーティには少し早かったので、家にあがって貰ってお茶を出した。深沢君の恋人はあろえのために今日来てゆく服を選ばせて欲しいと言い、あろえと一緒に二階に上がって行った。
 すぐに、二人の話す楽しげな声が聞こえてくる。
「彼女、あろえと話をするのが上手ですね。驚きました」
「勘がいいんですよ。それにしても、凄いですね。ツリーも立派ですし」
 部屋のクリスマスの飾り付けを見回しながら深沢君は言う。
 あろえがすっかり工作に魅せられてしまって、この一週間、頼みもしないのに毎日輪飾りばかり際限なく作っては笑顔で私のところへ持って来るので、飾り付けないわけにはいかなかったのだ。
「習慣になっちゃったんですね。クリスマスの後も、きっと作りたがりますよ」
 深沢君はおかしそうに目を細めた。
「そういえば、今年は学生最後のクリスマスイブなのに、プライベートに使わないでいいんですか?」
「最後だからこそ、学校のみんなと過ごしたいなと思ったんですよ」
 少し寂しそうに言う深沢君は、年が変わり春になれば大学を卒業してしまう。そしてその後は実家に帰って中学校の先生になることが決まっていた。評判の良いボランティアである彼は、きっと良い先生になるだろう。
「ちょっと早いけれど、お疲れ様でした。深沢君のおかげであろえは色んなことが出来るようになりました」
「いや、僕なんか全然大したことしてませんよ。本人や周りの人がみんな頑張ったからです。いつも力不足を感じてますよ」
 深沢君は照れくさそうに頭を掻いた。
「もし中学校がクビになったら、帰って来てくださいね」
 私が言うと、深沢君は困ったように笑った。
 やがて着替えを終えたあろえが階段を下りてくる。選んでもらった服は組み合わせのセンスが私なんかよりもずっと良くて、同じ服なのに普段よりずっと可愛いく見える。
 そしてあろえたちが行ってしまうと、家の中が急に静かになってしまった。考えてみたら家に居るときはいつもどこかにあろえがいた。一人ぼっちになんて一体いつ以来になるのか、はっきりと思い出せない。

 シャワーを浴びて、体を洗う。丹念に洗う。そんな自分がちょっと恥ずかしい気もするが、それは考えすぎというもので、こんなの何も特別な意味などない大人の女性として当たり前の身だしなみだ。そうに決まっている。下着だって、一番良さそうなやつを選んでやるのだ。やるのだ。
 それからメイクをして、髪の毛をセットして、着てゆく服をもう一度選び直していたら、いつの間にか時間がなくなっていた。だいぶ余裕を見ていたはずなのに。月島君が車で迎えに来る予定になっている。私は慌てて服を決め、コートまで着込み準備を済ます。そして椅子に腰掛けると変に緊張してしまって今度は一秒がやたら長い。時計のカチカチする音が、普段よりずっとスローテンポに聞こえる。表の道路を車が通るたびに、彼じゃないかと思って立ち上がりそうになる。
 やがて訪れた彼の車に乗る。見知った街なのに、どこをどう走ったのかさっぱり覚えていない。駅の近くにあるその小さなイタリアンレストランの前で車から降りたとき、はじめて、自分たちがどこへ向かっていたのかを理解した。
 月島君の大きな背中を身ながら店内に入ると静かで品の良い音楽が聞こえてくる。席に座ってまもなくシャンパンが運ばれグラスに注がれる。細長いグラスのピンク色の液体の中を底から水面に向かって気泡が泳いでいる。私たちは小さくお互いのグラスの縁を合わせて、一口含む。
 美味しくて、ラベルを確認したらどこかで聞いたような銘柄だった。高いのだろうか? そう思うとやたらと緊張してしまって、あとは何を食べているのかさっぱり解らなくなってしまった。
 食事がほぼ終わって二本目のシャンパンをゆっくり飲みながら、高校時代の話をしていた。月島君が野球部で汗くさい放課後を過ごしていたとき、私は美術部でテレピン臭くなっていた。
 あの頃月島君が付き合っていた女の子の話を仕向けると、彼は仕返しに私と仲の良かった男の子について尋ねて来た。随分大昔のような気がする。世の中の何もかもをわかったようなつもりで、そのくせ何もわかっていなかった青臭い時代の話だ。
「あのころも随分大人だっていう印象があったけど、八坂さんはいまでも大人な感じがするね」
「それは老けてるってこと?」
「じゃなくて」
 月島君は酔いでほのかに赤く染まった頬を弛緩させた。
 いい年して、こんなデートなんかでのぼせ上がって、何を食べているのかもわからなくなってしまう私が、大人の筈はない。せっかくこんなに高い料理を頂いたのに。
 もし私がそんなふうに見えているのなら、それはただ大人のふりが上手いというだけのことだろう。いつも幼くてわがままな自分にてこずっている。そんな話をしたら、
「今日はのぼせてくれてるんだ」
 彼は少し驚いた様に言い、私は自分の失言に気が付いた。
「化粧室行ってくる!」
 恥ずかしさにいたたまれなくなってハンドバッグを掴むと、慌てて席を立った。鏡に向かうと、私の顔は月島君よりもずっと赤くなっている。蛇口をひねり流れる水で手を冷やし、深呼吸をして気分を落ち着ける。お酒なんか飲んだのは今年のお正月以来だから、殆ど一年ぶりだ。ふわふわして楽しい気分だ。これはお酒のせいだけなのだろうか。
「ケーキがまだ残ってたんだって」
 戻ると、テーブルの上には美味しそうなケーキが乗っている。
「でも、もうお腹一杯だわ」
「そうだね。包んで貰おう」
 月島君はウェイターを呼び止め、ケーキは下げられた。
「雪が、だいぶ強くなって来たね。この分だと明日は除雪車が要るな」
 彼の視線につられて窓の外を見ると、羽毛の様な雪がゆっくりと舞い落ちていた。雪かきとなったら、スコップを新しく買わなければならない。去年のは、あろえがおもちゃにしてどこかになくしてしまった。今年はよく教えておかなければ、また同じことを繰り返すだろう。
「妹さんは……」
 彼が、ふと呟いた。
「え?」
 顔を向けると、月島君はまっすぐに私の顔を見つめている。
「妹さんは、今日は何時までに迎えに行けばいいの?」
 ボランティアの人が明日まで面倒見てくれる、と答えかけて、彼の真剣な表情の意味に気が付いた。もし、私が今日は迎えに行かなくてもいい、と言ったなら、それが自分のどんな意思を示すことになるか、解ってしまった。
 私の表情がこわばったのを見て、月島君は表情をゆるめ、グラスを手に取る。私に考える時間をくれたのだ。ほっとする。
 しかし、どうしよう、どうしよう、そればっかりが頭のなかでぐるぐる回って上手に考えられない。
「あ、預かってくれてる人に訊いてみるね」
 無理矢理愛想笑いを作ると、携帯電話を手に取った。心臓の鼓動が早くなり、顔に血が集まってくるのがわかる。緊張しすぎだ。まったく予想しなかったわけじゃないんだ、別に拒む理由もないんだ。私は今さら何をうろたえているの?
 自分を納得させる時間を稼ぐつもりで、電話をかけた。
 五回コールしたところで、深沢君が電話に出る。
「八坂さんですか?」
 彼の口調はいつになく硬かった。
「そうですけれど、あろえは何もしていませんか?」
「いや、何もないです。大丈夫です。安心してください」
 何か変だ。
「もし何かあったのなら、教えてください」
「本当ですよ。ただ、突然の電話だったからびっくりしちゃって……」
 とてもそうとは思えなかった。確かに彼の口調はもう普段通りに戻っている。だけれど違和感は拭い得ない。だいたい、楽しく過ごしているにしては彼の声の後ろが妙に静かだ。どこにいるのだろう?
 月島君と視線が合う。思わず真剣な表情になってしまった自分を申し訳なく思い、目をそらしてから会話を続ける。
「何かあったんですね。それで、私に言えないってことは、あろえに何かあったんではなくて、あろえが何かしたんですね?」
「まいったな、本当にそんなんじゃ……」
「いま、どこにいるか教えてください」
 私が強い口調で言うと、彼は言葉を詰まらせてから、
「すいません、僕は柿崎病院に来ています」
「病院……。あろえはどこにいますか?」
「一緒にいます」
 それだけ聞くと私は電話を切り、月島君と向かい合った。
「ごめんなさい」
「気にしないで」
 彼は首を振ると、すっと立ち上がる。
「妹さんに何かあったんだね。行こう。俺もついて行くよ」
「ありがとう、でも、一人で行くわ。一人の方がいいから」
「そうか」
「きょうはごめんなさい。誘ってくれて嬉しかった」
「うん」
 彼の微笑からあからさまに失望が読み取れて、胸が苦しかった。新しいコートとブーツが、やたらと硬く感じる。

 タクシーで向かう途中、深沢君から電話があった。
「大丈夫ですから、ゆっくりしていてください」
 そんなことが出来るわけない。私はもう病院に向かっていることを告げる。そう遠い距離ではないから、すぐに到着した。
 一カ所だけ明かりの灯っている救急用玄関に回ると、入り口のところに深沢君が立っていた。普段着のままで上着を身につけず、ズボンのポケットに手を突っ込んで肩をすくめながら、寒そうに白い息を吐いている。声をかけると、
「中だと携帯が使えませんから」
 震える唇で言った。
 彼は救急車に乗ってここへ来た。怪我人は、彼の恋人だった。コンクリートの上で転倒して、腰を打った。骨には異常がなかったけれど、いますぐに起きあがるというわけにもいかないらしい。痛み止めを飲んで、ついさっき寝付いたそうだ。
「階段に雪が積もっていて、足を滑らせたんです」
 はじめはそうとしか言わなかったのを問い詰めると、やはり、あろえが原因だった。階段を上りかけた彼女の服を、あろえが急に引っ張ってバランスを崩させたのだ。そして結果として階段から転落した。
「僕たちが不注意だったんです。あろえちゃんが人を呼ぶとき服や腕をつかんだりすることがあるのは、ちゃんと知っていたはずなのに」
 湯気のたつ紙コップで両手を温めながら、彼はそう言った。
 行為自体は子供もよくやることだが、あろえの体格は子供のものではない。身長は深沢君の恋人と同じか、ことによるとあろえのほうが少し高いかもしれない。そんな人間に階段の途中でいきなり引っ張られたら、注意していたとしても、転倒は不可抗力だったはずだ。
 私はぞっとして背筋が冷たくなる。もし一歩間違えていたら、もっと酷い結果を導いてことは容易に想像出来た。
「申し訳ありません」
「いや、頭なんか下げないでください。こっちこそ、せっかくのクリスマスだったのに、こんなことになってしまって」
「そんな」
「僕がついていたのに。あろえちゃんは、ただいつも通りにしていただけなんですよ。それなのに。やっぱり僕は、向いていないんでしょうね。今日は僕はここで夜を明かしますよ。八坂さんは帰った方が良いですよ。ちゃんとした時間にあろえちゃんを寝かさないと」
 彼は元気づけようと笑ってくれたが、普段ほどの力がない。そしてコップの中身をすすった。
 自信を失い落ち込む彼を初めて見て、覆い隠せない彼のショックを知った。私は何も声をかけるべきだと思ったけれど、いまの私の役割から何を言ったらいいか解らなかった。
 あろえは病院の長椅子に腰掛けて絵本を読んでいた。傍らには若い看護師が座ってそれを見守っている。
「姉です」
「あなたがお姉さん? この子、さっきまで落ち着かなかったんだけれど、この絵本が気に入ってくれたみたいで、ずっと真剣に見てるの」
「そうですか、面倒みていただいてすみません」
「自閉症なんですってね。こんなに大きい子、家にいる間ずっと面倒見てるのは大変でしょう。パニックが起きたときとか、大丈夫なの?」
「まあ、なんとか。妹は腕力はそんなにないですから」
「親御さんも家にいないんですってね。大変ねえ」
「………」
「出来れば、ちゃんと話し合って一緒に面倒みたほうがいいですよ。やっぱり、身内の人が一致団結しないと。でも、そうは言っても簡単にはいかないのよね。大変ねえ。綺麗な格好して、あなた、今日どこか出かけていたんでしょう?」
 同情されて私は、より一層みじめな気分になった。あろえは、すぐ傍で自分のことについて話されているのにも気が付かず、絵本を見つめている。自分が何をしたか、ちっとも理解していないのだろう。
「あろえ、もうやめなさい」
 あろえは、顔をあげた。
「帰ります。もうやめなさい」
「ダメです」
 言ってから、視線を絵本に落とす。
「やめなさい」
 強く言っても、あろえは返事をしない。
「聞こえないの?」
「きこえないの」
「よっぽど気に入っちゃったんですね。もう少しだけここに居ますか?」
 いつのまにか深沢君が近くに来ていた。私たちは、いまこの状況の彼にまで、気を遣わせてしまっている。恥ずかしくなった。
「いいんです。ほら、やめなさい」
「ダメです」
 その返事にもう耐えられなくなって、私は絵本をあろえの膝の上から取り上げた。奪い返そうと伸ばしたあろえの手を掴む。
「あろえ、帰りますよ」
 あろえは私の口調からようやく異変を察したのか、不安な表情を浮かべ、
「あろえかえりますよ」
 口の中でぼそぼそと呟いた。私は取り上げた絵本を看護師さんに渡す。
「八坂さん……」
 深沢君が心配げに見ている。
「今日は本当にすみませんでした」
 私は頭を下げてから、まだ絵本に未練を残し見つめているあろえの手を強く引いた。

   六

 私は椅子に腰掛けてテーブルの上にぐったりとしていた。苛々していたが、それ以上に疲れて、鎖を巻いたかのように体が重かった。
 あろえは遅く帰ったときの習慣である入浴を要求し、湯を張ると自分から入っていった。月島君に謝りの電話をかけなくてはならないが、気後れしてとても無理だった。
 テーブルの上に脱ぎ捨てたコートが雪で湿ったままくしゃりと潰れている。放っておけばしわになってしまうだろうけれど、手にとってハンガーに掛ける気にはなれなかった。上品な装飾がなんだかとても忌々しく目に映り、出来れば今すぐ焼き捨ててしまいたかった。浮かれていた自分が恨めしい。私は何故自分の日常から離れられるなんて勘違いをしていたのだろう。
 いまさらのことに、目頭が熱くなってしまって、それがまた情けない。
 まったく、慣れないことはするんじゃないわね。自分を笑い飛ばし、それから病院での自分の振るまいを思い出した。感情を剥き出しにして、みっともない。明日になったら病院に行って、もう一度彼らに正式に謝らなくては。怪我をさせてしまったのだ。お見舞いの品もそれらしいものが必要だろう。私は、もっとしっかりしないと。
 あろえが風呂からあがって来た。服を着るのを忘れていて、素っ裸だった。白い肌がお湯に火照って薄いピンク色に染まっている。体を拭っていないから全身びしょ濡れで、水滴を振りまきながらつま先で歩いてくる。ちゃんと流していないために、髪の毛や乳房に泡の固まりが残っている。そのくせ、コミュニケーションブックだけは大事に首からぶらさげている。
 いつもの椅子に腰掛けた。そして、ブックのページを繰って、いつものように眉間にしわをよせて難しそうな顔をつくる。
「コーヒーください」
 あろえは言った。
「コーヒーください」
「コーヒーください」
「コーヒーください」
「コーヒーください」
 私が黙っていると延々と繰り返す。別に怒るでもなく、急かすわけでもなく、淡々と繰り返している。
 彼女は口調によって言葉の印象を変える技術を持たないが、こうして執拗に何度も言ってくれるのなら、私でも少しは言外の意図を読み取ることが出来る。このまま放っておけば、あろえはそのうちガタガタと椅子を揺すって抗議をはじめるだろう。私がコーヒーを出さないことを、不愉快に思っているのだ。でも私だって、今は彼女に劣らず不愉快なのだ。たまにはあろえが私に合わせたっていい。
 それにしても、ロボットのように感情のない口調だ。本当に彼女の内側に心というものがあるのか不安になってくる。あるとは思うが、たとえあったとしても、それは私の心と共有できる部分がとても少ない心だろう。お互いに相手の気持ちが理解出来ない。
 彼女の心は誰とも通じ合うことが出来ない。それならば彼女の心は一体何のためにあるんだ? 誰にも伝えることの出来ない感情なんかただ苦しいだけじゃないか。どうしてあろえは耐えられるの? 私にはとても想像が出来ない。
 あろえと相対していると、彼女の心と私の心があまりにも何も響き合わなくて、暗闇と見つめ合っているような孤独な気持ちになってくる。
「コーヒーください」
 そろそろ、ブックを見つめるあろえの目つきが怪しくなってきた。本格的に怒り出すのは近い。癇癪を起こすのならば起こせばいい。そう思っていると、
「くしゅん」
 くしゃみをした。
「コーヒーください」
 それでも彼女は真剣な顔で続けている。このまま裸でこの寒いキッチンにいれば、きっと風邪を引いてしまうだろう。もう降参だ。私は、根負けして立ち上がった。
 彼女のためにコーヒーを淹れ、それからタオルと着替えを持ってくる。

 美味しいのかまずいのかよくわからない顔でコーヒーを飲む彼女の体をタオルで拭いながら、その肌に触れてみた。表面は部屋の空気で冷えてしまっているが、奥からじんわりと温かみが伝わってくる。
 生きてるんだな、と馬鹿みたいに当たり前の言葉が頭に浮かんだ。この子は、一人で生きることが出来ないくせに、他人が常に傍にいなければ駄目なくせに、自分を孤独から守る方法をまるで知らない。そもそも他人というものがわからないんだ。すぐ傍にいる私さえ自分と同じ人間だと理解することが出来ていない。自分を守るものを何一つ持たずに、生まれ持った柔らかい皮膚の体一つで、生きている。心がどうかなんて知らないけれど、生きているのは本当だ。
「ごちそうさまでした」
 あろえは満足そうに笑う。

 コーヒーを飲み終わった彼女に服を着せて、布団に寝かせて、それから私は入浴し、自分の寝床についた。湯上がりにひんやりとした布団が気持ちよくて、手足の先からあっという間に睡魔に溶かされてゆく。
 最後に意識が暗闇に飲まれる間際、
「明日からまた、あろえと二人きりで頑張っていこう」
 と、小さく呟いた。
「もう他のことは何もしない」
 生きているかぎりは、なにがあってもくじけたり休んだりすることは許されないんだ。きっと、人生ってそういうものなんだろう。我慢すれば済むことに、負けてしまうのはきっとカッコ悪い。
 自分に何度も言い聞かせた。
 でも多分、月島君がまた誘ってくれたら、行ってしまうだろうなとは思う。それくらいは良いのじゃないかしら。
 そして、私は、眠りに落ちていった。


 ――それから間もなくして、その地震は起きた。

 

 

 

 

 to be continued...